精神世界への憧れ

これまで書いてきたことだけを読むと、私の学生時代は左寄りの社会派みたいに感じますが、実はその一方で精神世界への憧れがとても強くありました。

中学高校を通して最も好きな授業は「宗教」でした。大谷高校は言うまでもなく浄土真宗大谷派の学校で、毎週1時間、宗教の授業があり、親鸞の教えを学ばなければなりませんでした。もちろん中高生が親鸞の教えを理解することは難しいわけですから、宗教の先生はあの手この手で、ぐうたらで宗教の授業なんて昼寝の時間としか思っていない女子高生たちに親鸞の教えを伝えようをしていたのだと思います。

私ももちろん、授業を毎回真面目に聞いていたわけではないけれど、「道徳」の時間は吐き気がするほどうざかった割に、宗教の授業で聞いた話は今も心に残っていることが多いです。多分、同じことを言っていても、その教師のバックグラウンドが透けて見えてしまうと素直に聞いていることができなくなってしまうのです。「学習指導要綱」に従って、「嘘」や「綺麗事」を並べるだけの教師の言葉に本能的に反抗的な思いが湧き上がってきてしまいます。キライな担任の道徳の時間には、「先生、自分 、できるんですか?」って質問したりして「わからない」と答える教師に「教える資格あるんですか?」と、1人で授業ボイコットをしていたこともあります。。。

一方、宗教の先生(僧侶兼社会の教師)は大好きで、私たちが生きている地上の世界を一段上から鳥瞰しているような言動に、何かしらの畏れ、敬意を抱いていました。私たちが地上世界で右往左往していることが低次元のことであるかのような達観した物言いに、何か自分はまだ見えないもの、理解できない世界観、到達できない真実が含まれているような強い憧れがありました。

日本人は宗教にアレルギー反応を起こす人が多いですよね。普通の会話で「変な人」と思われたくなければ、政治と宗教の話はタブーです。「ヤバイ」「危ない」「ダサい」ヤツになってしまうからです。でも私は黒田ジャーナルとの交流を通して「政治」にとても敏感になっていましたし、原発反対で「社会運動」めいたことにも足をつっこんじゃってましたし、宗教の先生との出会いによって「宗教」に対するアレルギーも全くない人になっており、そこまでいくと、逆にもう「怖いものはない」状態になってしまっちゃっていたように思います。。。