黒田ジャーナルとの出会い

私が「ジャーナリスト」という夢を叶えるために受験勉強に明け暮れていたその頃、(私にとっては誠に残念なことに)大谷さんが読売新聞社🗞を退職したという知らせを受け取りました。上司であった黒田清さんと共に「黒田ジャーナル」という会社を立ち上げ、独立ジャーナリストとしての道を歩んでゆくことにしたとのことでした。。。

一方、無事に受験を終え大学に進学した私は、ちょうど家と大学の中間の大阪梅田にあった「黒田ジャーナル」にちょくちょく顔を出すようになりました。そしてちょっとした雑用を手伝わせてもらったり、飲みに連れて行ってもらったり、発行していた新聞の会員さんとの交流会の常連となり、皆さんにとても可愛がってもらえるような存在になっていました。大谷さんに涙を流しながら恋愛の相談にまで乗ってもらったのは、今では本当に楽しい思い出ですwww😊

もちろん高校時代の私は知る由もなかったのですが、当時(私が大谷さんに出会う少し前)、読売新聞大阪本社は、黒田清さんを社会部長に据え、大谷さんはじめとした遊軍記者たちがバンバン特ダネを飛ばすいわゆる「黒田軍団」として、🎉破竹の勢い🎉で時代だったのでした。

黒田清さんについては、私ごときが何かを語る必要は全くない言わずと知れた「闘魂のジャーナリスト」であったわけですが、その「常に社会の最も弱い者の側に立つ」、、、という姿勢・視点が、東京本社の渡辺恒雄氏周辺に疎まれ、閑職に追いやられた後の退職、独立という背景があったのでした。

私が大谷さんの講演を聞いたのは、まさしくその閑職の真っ只中、退職の直前というタイミングだったのです😞

退職後の黒田さんと大谷さんは、読売新聞という大きな器こそ失くしてしまったものの、水を得た魚のように、自由に自分の思うこと、信じる主張を様々なメディアを通して発信していくようになったことは周知の通りです。

今思い返すと、それら一連の日本ジャーナリズム史に残るような「黒田軍団」の崩壊、ナベツネとの確執、独立ジャーナリズムの立ち上げを身近に見聞きしたこと、その後「黒田ジャーナル」への親しい出入りを許され、笑いながら、また酔っ払いながら、そして時に厳しい表情で、黒田さんや大谷さんからジャーナリストとしての薫陶を受けられたことは、私にとって誠に実りあるぜいたくな時間であったと、今も思うのです🤗🤗🤗